桧原湖ワカサギ釣りの由来

ワカサギ釣りは
 「三〇〇マン スワコカラ オクッタテハイタノム」との一通の電報から始まった。

明治21年7月15日(1888)午前7時45分頃 磐梯山が爆発する。
川が堰止められて、現在の「桧原湖・曽原湖・小野川湖・秋元湖」を含めた300余りの湖沼群が形成される。
満水になるまで2年の歳月が流れる。
その後、人・荷物の移動(運搬)は湖上となり2隻(磐梯丸・桧原丸)の船が生活を支えた。
 現在の桧原湖周遊道路の原型は昭和20年(1945)頃までに作られた。徒歩が主流で凸凹や幅も狭かったようだ。その後少しづつ整備、改良され昭和42年(1967)頃までは車が走れるようになった。
昭和25年9月5日(1950)磐梯朝日国立公園に指定される。

ワカサギの誕生まで
ワカサギの採卵箱を手に入れ桧原湖に沈め孵化を待ったのは、元猪苗代営林署長 金森徹夫さんだった。
桧原地区の村民の貧困を見かねて、生活困窮を救おうとした。
昭和20年4月(1945)初めて桧原湖に採卵箱を入れ、二週間を待ちに待って稚魚の孵化が確認できた。
その後ワカサギは、3年かけて何度も孵化させて、ワカサギを成育させた。
釣りを始めたのは昭和36年(1961)裏磐梯小学校雄子沢分校に勤務した坂下町出身山内宏裕先生と言うのが一般的だが、孵化放流から13年後の昭和33年(1958)頃から地元の釣り愛好者が細々と行っていた(今で言う寒ブナ釣りが主流?ウグイ、ワカサギも釣っていた)が、山内先生が一般的に広めたと言ってよいと思われる。
 昭和42年(1967)の冬から桧原湖北岸、早稲沢、金山、桧原本村に釣り場を求め桧原湖全域に広まった。理由として考えられるのは、同じ年から除雪が行われ車の移動が出来たものと思われる。
 当時の釣りは、氷に穴を開けた晴天の楽しみだったが、後に風除けとして雪を積み風下で釣りをした。
 その後細い小枝を5,6本穴の周りに建てビニールシートで囲い寒さを凌ぎながら釣りを行った。
 小枝が竹、ビニールパイプと材質も変わり防寒体制が良くなる、数人入る釣り小屋やモービルなどで移動可能なハウス的なものに変化し現在のスタイルになってきた。「桧原湖のワカサギ釣り」「冬の風物詩」として定着するようになった。
 昭和63年(1988)頃からは「屋形船」(ひばら丸・えんどう丸・しのぶ丸の3隻)が就航し、氷結前からワカサギ釣りが楽しめるようになった。
 金森さんの発想で地元住民の協力の下成し遂げられた成果が現在のワカサギ釣りを支えている。
 現在は桧原漁協組合が、毎年ワカサギの卵を採卵し孵化させ放流している、
その他にフナ・鯉・ウグイ・岩魚なども放流を行っている。
 しかし、桧原湖には誰が入れたかは定かでないが「ブラックバス」が生息し、全国的に有名となり日本を代表する各種大会も行われている。
ワカサギに対してはダメージが少なく、共存させながら「桧原湖の風物詩・ワカサギ釣り」をお楽しみください。

 今、桧原漁協組合や地元住民が一番の悩みは「ごみ」の問題である。心無い者が何処かしこと捨てたり、氷上では穴の中に沈めて帰る者もいて春先の清掃では湖岸に打ち上げられているごみを集め景観を維持している。しかし、湖底に沈んでいるごみの量ははるかに多いと思われる。

 マナーを守り先人の意を汲み今後長く「ワカサギ釣り」を楽しみたいですね。
 皆様のご協力をお願いいたします。

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